• 最新情報
  • 習いごと

[2018/04/26]

鎌倉大仏殿で東日本大震災追悼・復興祈願祭が行われました 地域・観光・歴史

東日本大震災から7年の歳月が経ちました

この記事をクリップする

  • 地域特派員

地域特派員

from スタッフ

 

IMG_9279

東日本大震災から今年で7年の歳月が経ち、今年も3月11日(日)に鎌倉大仏殿高徳院で「東日本大震災追悼・復興祈願祭」(主催:鎌倉宗教者会議)が行われました。2011年大震災の翌月の4月11日に鎌倉市内の神道、仏教、キリスト教の3宗教者が宗教の違いを超えて鶴岡八幡宮に集い、一般参列者と共に若宮大路を由比ヶ浜まで追悼の気持ちを込めて歩きました。それから毎年、3月11日に祈願祭が行われており、鶴岡八幡宮をはじめ、建長寺、カトリック雪ノ下教会、円覚寺と会場を移してきました。第8回目の今年は鎌倉大仏殿高徳院で初めて行われました。

IMG_9276

大地震が発生した午後2時46分に大仏様に参列者一同黙とうを捧げました。その後に、神道、キリスト教、仏教の順に祈りを捧げ、最後には、たくさんの一般参列者のご焼香で祈願祭が終了しました

鎌倉の大仏様は、通常のお坊さんのお祈りではなく、神職、司祭、牧師さんのお祈りの仕方にびっくりされたようにもみえました。750年以上も坐しておられて初めてのことでしょうね。鎌倉ならではの宗派を超えてのお祈りは、被災地に強いメッセージが届いていることと思います。

IMG_9284

 

鎌倉で仏像として唯一の国宝

高徳院の正式名称は「大異山高徳院清浄泉寺(だいいざんこうとくいんしょうじょうせんじ)」です。鎌倉大仏には謎が多いといわれていますが、そのひとつが高徳院の開山、開基が不詳(未詳かも)という点です。ご本尊は、ご存知「鎌倉大仏」です。阿弥陀如来像で鎌倉では仏像として唯一の国宝です。奈良の大仏が朝廷の力で造られたのに対して鎌倉の大仏は民間の浄財によって造られました。建久6年(1195)源頼朝は奈良の大仏殿落慶供養に参列し、鎌倉にも大仏建立を考えたと想像します。そして頼朝没後に侍女の稲多野局(大仏様の後ろに碑があります)と勧進上人浄光により暦仁元年(1238)から木造の大仏が造られたようです。しかし、宝治元年(1247)大風により倒壊したともいわれています。しかし木造の大仏があったようですが、倒壊したのか青銅の大仏の原型の役目をしたのかは謎です。

IMG_9292

 

そして、これだけの巨大なものを鋳造するのに鎌倉幕府や時の執権北条氏が関わっていたと思われますが、その記録はないようです。建長4年(1252)に現在の 青銅像を鋳造しはじめました。明応4年(1495)には、津波で大仏殿が流されます。その後は露坐の大仏となりました。像高11.31m(膝から頭の上まで)総高約13.35m(台座を含める)、総重量121tの像は宋の影響を受け、当時としては最高の技術を駆使して造られたようです。近年の発掘調査により大仏殿跡と鋳造過程を知る遺構が確認されて「鎌倉大仏殿跡」として国の史跡に指定されました。17年程前に大仏周辺の遺跡の調査があり、その結果、大仏殿の規模が間口145尺(正面0.303×145=43.94m)、梁間140尺(奥行き0.303×140=42.42m)であったことが判明しました。想像以上の巨大さだったようです。

IMG_9285

鋳造過程を示す書籍等は多くありますので興味のある方は、ご確認ください。最終的にこの大仏様が出来上がった時には、土の中に埋もれていたようです。大仏さんを、よく拝観すると横に7段階に線が入っています。大仏を造る前に地面を整地して下から順繰りに土を盛ります。その前に原型がないといけませんので外型と中型を造り、その間に青銅を鎔かして流し込みます。ですから、いくつかの横の線がある訳です。また、青銅は宋銭を鋳つぶした説と塊を中国から輸入したという説があるようです。

IMG_9289

境内奥に観月堂があります。もとは今のソウルの朝鮮王宮内に建てられたお月見を楽しむお堂だったのが、東京目黒に移り、大正13年に高徳院に移築・寄贈された建物です。堂内には鎌倉観音霊場23番札所の観音菩薩立像が祀られています。その傍らには与謝野晶子の「かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は美男におわす夏木立かな」の碑があります。こちらは、昭和27年4月に味の素株式会社が鎌倉大仏造立700年記念に建てられました。大仏様は阿弥陀如来ですが日本を代表する歌人の歌は味わいを感じます。