• 最新情報
  • 習いごと

[2017/03/14]

太平記ゆかりの鎌倉の名所を歩く その2 地域・観光・歴史

理智光寺跡

この記事をクリップする

  • 地域特派員

地域特派員

かん治

かん治

鎌倉検定は1級です。お酒は2級を飲み、プレゼントをいただきますと、喜んでサンキュウと言っています。サラリーマンです。給料はハッキュウです。

画像 175

鎌倉宮カントリーテニスクラブ

鎌倉宮を出て東側に歩くと「鎌倉宮カントリーテニスクラブ」があります。天皇皇后両陛下が若かりし頃にこちらで、テニスをされて楽しまれた思い出のコートです。 右手に「平山」という表札があります。日本を代表する日本画家故平山郁夫先生のご自宅兼アトリエです。鎌倉市名誉市民の平山先生も平成21年(2009)に他界されてしまいました。

画像 173

画像 174

理智光寺橋の名前が(写真上)

少し歩くと 理智光寺橋があります。この辺りは理智光寺ヶ谷です。西側には二階堂川が流れ、史跡永福寺の総門のあった付近から谷に入る所に架かる橋です。橋は昭和32年(1957)2月に架け替えられた鉄筋コンクリート製で「理智光寺」の遺称となっています。

画像 162

理智光寺址の石碑

そこから15mほど、歩くと石碑があります。護良親王が足利直義の命に従った家来、淵辺伊賀守義博によって東光寺(廃寺・現在鎌倉宮のあるところ)で殺害されます。淵辺は親王が幽閉されていた土牢の近くの藪の中に御首を捨てて消え失せます。そして、理智光寺(廃寺)の僧が、この御首を理智光寺の山上に手厚く葬りました。

画像 161

理智光寺跡正面

画像 163

後醍醐天皇皇子護良親王墓の碑

理智光寺跡の山頂には、宝篋印塔があります。明治11年(1878)に護良親王の御墓と決定され宮内庁の所管となっています。山頂まで約170段の石段があります。また、理智光寺にあった御位牌は、もと浄光明寺の慈恩院にあったといい、明治3年(1870)10月22日、東慶寺に移されました。

画像 165

長い階段です

画像 168

左に曲がるとお墓の近くに着きます

画像 170

ここからは立入禁止です

理智光寺の宗旨は未詳です。この場所の二階堂理智光寺谷にあったようです。開山は願行房憲静。『鎌倉志』に「五峰山理智光寺ト号ス」とあります。現在は開発されてすっかり埋め立てられ住宅地となっています。大塔宮の墓の南西の谷を理智光寺谷といい、恐らくこの谷全部を寺域としていたものと思われます。『金沢文庫古文書』には理智光院と記されています。また『北条九代記』には延慶3年(1310)11月6日延焼、理智光院とあります。『常楽記』には「嘉暦元年4月、二階堂理智光院長老道舜房於京都、嘉暦2年4月17日、伊豆山妙静上人於理智光院入滅」とみえ、『太平記』十三には、建武2年(1335)、淵辺伊賀守義博が護良親王の首を藪の中に捨てたのを、理智光院の長老が葬ったことが載っています。『大日本史料』に「鎌倉理智光寺牌没故兵部卿親王尊霊、建武2年7月23日」とあります。以上のように、南北朝頃までは、いずれも理智光院となっていますが、いつからか理智光寺と称するようになったようです。

現在、理智光寺阿弥陀本尊の鞘阿弥陀が覚園寺にあります。胎内仏があったというが、今はありません。この辺りは、北は四ツ石・三堂・紅葉ヶ谷・西は稲葉越(稲葉越橋がある)、南は、胡桃ヶ谷・向小路(浄明寺)に接しています。地名の由来は、明治初年に廃絶となった五峰山理智光寺が所在した事によります。理智光寺の初見は浄妙寺文書の『鎌倉代官大道寺盛昌書出』に小田原城主北条氏康が天文16年(1547)10月3日に二貫二百文の地を理智光寺慈恩院に寄進している文書です。『北条九代記』には延慶3年(1310)11月6日に理智光院が延焼したこと、また『常楽記』には嘉暦元年(1326)4月に二階堂理智光院老道舜房が京都で、嘉暦2年4月17日に伊豆山妙静上人が理智光院で入滅した事が記されています。『新編鎌倉志』に願行および大塔宮の位牌のことをのべ、この牌は浄光明寺慈恩院にあったのを、理智光寺にあるべき物であるからというので移したとあります。江戸時代には、一時、寺の形をしていたらしいのですが、『攬勝考』には「此寺今は尼寺と成る、山ノ内東慶寺の末となれり」といい、『風土記稿』には、今はこの阿弥陀堂のみにして東慶寺の持となれり、とあります。なお、この阿弥陀堂は、谷の入口付近にあったということです。阿弥陀堂の本尊は俗に鞘阿弥陀と称せられ、胎内仏があったというが、現在はありません。そして、明治初年に廃寺になると、覚園寺に移され、現在薬師堂の客仏となっています。

むかしは境内の内であったと考えられる山の上に、大塔宮の墓所があり、現在は宮内庁の管理になっています。不完全な石造宝篋印塔です。谷奥から鎌倉初期の鼔瓦を出土しているという。山田時太郎氏(昭和12年当時75歳)は「護良親王御陵の玉垣・石段も鎌倉宮御創建当時に造られたもので、理智光寺はその石段前に二間に三間位の大きさの庫裡があり、隣にお婆さんが留守居をしていて、手習い師匠でした。私共も習いに通ったものです。廃寺となったのは鎌倉宮御造営の頃(明治2年2月~4月)で、当時安置されていた安(阿)弥陀尊像は覚園寺に移されました」と語っています。寺が衰微して廃亡直前の様子を明らかにするものとしておもしろいですね。

画像 172

菊のご紋章扉の中に護良親王の墓があります

そして太平記第12ですね。“兵部卿親王流刑事(ヒョウブキョウシンノウルケイノコト)”とあります。護良親王は足利尊氏と征夷大将軍の地位を争います。つまり、お互いに征夷大将軍になりたいんですね。尊氏がなりたいのなら、俺が先だと言ったのが護良親王です。ところが後醍醐天皇はどちらにも与えませんでしたが、結果的に護良親王に征夷大将軍を授けます。尊氏には、東征将軍という変な肩書きを付けます。だから段々と尊氏は後醍醐天皇に反抗していきます。そして、尊氏と争って、敗れて捕らえれた護良親王が鎌倉に運ばれてきます。捕らえてきて、それを見張っていたのが尊氏の弟直義でした。直義の居た所が、こちらの裏山を超える場所にあります。浄妙寺です。直義は、後にそこへ、浄妙寺の中の塔頭として大休寺というお寺を建てます。そして、ここに直義が潜っていた時に最後はそこで兄貴の尊氏に毒殺されてしまいます。北条氏の残党の中先代の乱は、北条高時の遺児、時行が鎌倉を襲います。直義は防ぎきれなかったものですから、それで護良親王は殺されてしまいます。護良親王がいたのでは足手まといになる。戦えない、そこで首を斬った時の様子が、巻第12、兵部卿親王流刑事いうところにあるわけですね。

遂ニ建武元年(1334年)11月15日。宮ヲ直義朝臣ノ方ヘ渡(わたさ)被(れ)ケレバ、数百騎ノ軍  勢ヲ以ッテ、路次(ろし)ヲ警固シ、鎌倉ヘ下シ奉テ、二階堂ノ谷(やつ)ニ土ノ籠ヲ塗(ぬっ)テゾ、置進(おきまヰら)セケル。

捕らえた親王を鎌倉の二階堂の谷に土の籠を塗ってぞおき参らせける。こういう風な表現です。そこで二階堂谷に土の籠を塗って、この通りにこれを真面目に解釈しますと、是は座敷に籠を設えて、そしてそこで塗ってとありますから、壁塗りして籠を造った。だから、それをくっ付けますと土籠になります。その寺こそ東光寺という寺でした。今の鎌倉宮のある場所にあった寺です。これが、おそらく室町時代の永享頃には無くなってしまいます。足利尊氏に大いに関係する東光寺という寺でした。ですから、これを土籠と言って、今そういうのができております。これは観光的な事ですから仕方がないんですが、随分中をきれいにしましてね。こうすると土籠と言えなくなりますが、土籠ですとね。座敷籠であると鎌倉宮では言っています。だから、ここで言っている太平記の巻第12に出ている所の、二階堂谷に土の籠を塗ってぞ、表現をそのまま解釈すれば、当然壁塗りをしたと言って土籠を造った。ああいう穴ではない。考古学的には、二段構えの横穴古墳であると考えられているようです。

護良親王の伝説は義経と同じように生きて、そしてあっち行ったのと、義経伝説は、竜飛岬の近くに義経寺(ギケイジ)というのがありますしね。有名なものでは、ジンギスカンは義経であるとかですね。

護良親王伝説で有名なものには「ひなづる伝説」と「石巻伝説」があります。あとでそれが、歴史的なことと混同されてしまいます。幸若舞だとか、浄瑠璃だとか、謡曲だとか脚色されたね、芝居用にね、あるいは踊り等に脚色されたものを、そういったものを例として伝説があります。歴史学的には一切そういうのは関係ありませんで済んでしまいます。

最後に「石巻伝説」です。鎌倉宮のご祭神は、鎌倉幕府滅亡の折に活躍した護良親王で、現在の鎌倉宮のある場所で生涯を終えられたと伝えられています。しかし実は奥州石巻に落ち延びたという伝説もあり、宮城県石巻市吉野町の「一皇子宮」(このお宮も2011年の東日本大震災の津波で大きな被災をうけました)のご祭神でもあるのです。足利直義の家来、淵辺伊賀守義博は護良親王のお姿に畏敬の念を強く持ち、親王を殺めず、船で石巻に逃したという伝説です。実際、石巻には現在でも村上さん、平塚さん、日下さん等親王のご家来の姓の方々がいます。おそらくは、家来が石巻に落ち延びて、親王を祀る神社を創建したものと勝手に考えています。(かん治=石巻市出身です)