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[2017/04/14]

太平記ゆかりの鎌倉の名所を歩く  その3 地域・観光・歴史

北条家一族屋敷跡に建つ鎮魂の寺

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かん治

かん治

鎌倉検定は1級です。お酒は2級を飲み、プレゼントをいただきますと、喜んでサンキュウと言っています。サラリーマンです。給料はハッキュウです。

「萩寺でおなじみの宝戒寺」 

宝戒寺本堂

宝戒寺本堂

若宮大路の段葛をそぞろ歩き三の鳥居まで来まして、その前は横大路です。横大路を東に向かうと突き当りに宝戒寺があります。正式には金龍山釈満院円頓宝戒寺という天台宗の寺院です。元弘3年(1333)東勝寺で自刃した北条高時の菩提を弔うために、鎌倉幕府の滅んだ2年後の建武2年(1335年)に創建しました。この地には北条一族の中でも「得宗家」と呼ばれる北条氏本家の屋敷があったようです。ですから一族の屋敷跡に建つ鎮魂の寺といえます。開山は円観慧鎮。当時比叡山第一といわれた天台宗の僧侶です。この僧は天皇の信も厚く、元弘の乱の最中には、朝廷に招かれて討幕の特別祈願も行っています。開基は後題醐天皇です。伽藍の建設には天皇の勅命を受けた足利尊氏が当たったといわれます。

本尊は地蔵菩薩像(国重文)で、子育経読地蔵という名で親しまれています。関東大震災のとき像の中から出てきた記録から、京都の三条法印憲円という仏師が「貞治4年」(1365年)に造ったものとわかりました。本尊の脇侍で南北朝時代の優作である木造梵天・帝釈天立像の二体も、ご本尊とともに同じころに造られたものと思われます。その前には十王像が居並びます。中央には『太平記』の主役である、後醍醐天皇、北条高時、足利尊氏・東勝寺で戦没した北条一族等のお位牌が祀られています。右の部屋には閻魔大王像、左の部屋には不動明王・准胝観音・毘沙門天像(鎌倉・江の島七福神)が安置されています。

聖徳太子堂

聖徳太子堂

また、境内には入って右手には聖徳太子をまつる太子堂があります。毎年1月22日には太子講が行われ、市内の建築関係の人や植木屋・石屋などの職人が多数参加して行われます。護摩を焚き、読経をして法要を営みます。その横には、北条高時をまつるお堂である徳崇(得宗)権現社もあり、その奥には、国重文の秘仏で衣紋に大型の土紋を残す木造歓喜天立像(非公開)があります。別名「萩寺」と呼ばれ、9月のお彼岸の頃には境内いっぱいに白い萩の花が咲きそろいます。

 

「太平記」の私見です

ここからは「太平記」に関する私見ですので、悪しからず。以前は「太平記」は歴史学に益なしと称されたこともあったようですが、南北朝の時代を活写し、その本質を鋭く描いていますので、太平記なくしてはこの時代を語る事はできないと言われています。

「宝戒寺のご本尊はお地蔵様」

「太平記」の作者のひとりである慧鎮上人が何故、鎌倉に宝戒寺を建てたのかという謎を考えてみます。鎌倉の地蔵信仰の上で宝戒寺が何故ここに建てられて、何故ご本尊として祀られているかは実は不明なようです。お地蔵様がご本尊の建長寺とこちらの宝戒寺のご本尊は性格は違うようです。少なくとも宝戒寺の縁起には、足利尊氏が後醍醐天皇の命を受けて、そして建立したという事になっています。つまりは通常言われているように北条一族が東勝寺で自害して幕府が滅亡した。その霊を弔うために、ここに宝戒寺を建てご本尊としてお地蔵様を祀っているという事です。

徳崇大権現堂

徳崇大権現堂

「太平記に合戦記が増えた訳は?」

「太平記」は基本的には南朝方の人が書いているようです。当時、慧鎮上人は京都の法勝寺にいました。その時に足利氏の京都の菩提寺である等持院に足利直義がいまして、そこに慧鎮上人が30巻本を持っていきます。今纏めました、どうでしょうかと伺います。幕府が滅亡した後の動乱をずっと目(ま)の当たりに見た、それをそのままを書いた訳です。すると足利直義は、これは間違いだ、これを正せ(ただせ)、そしてもっと、これも入れろ、あれも入れろと言います。その為に30巻から最終的には10巻増えて40巻になったようです。ですから合戦記としての性格は慧鎮上人が考えた時はそれほどなかったようです。ところが武家の手が少し入ってしまうと、一般論は良いから、あの合戦であの一族は活躍した等々たくさん入れなさいという事になったものですから増えた訳です。いずれにしましても、こ「太平記」は素晴らしい文学作品であると同時に歴史学においても素晴らしい史料になるということは間違いないようです。

大聖歓喜天堂

大聖歓喜天堂

「承久の乱からはじまった両党迭立が要因か?」

承久3年(1221)には承久の乱というのがありました。鎌倉幕府と京都朝廷の後鳥羽上皇方が戦い、鎌倉方が勝ちました。当時の執権は北条義時です。その義時の屋敷跡を狙って宝戒寺を建てたという説もあります。それから慧鎮上人の一派というのは地蔵信仰の塊です。つまり後醍醐天皇は朝廷の朝敵であった鎌倉幕府は憎いという強い思いがあり、その事が要因だという説もあります。何故かといいますと、北朝と南朝というのが生まれた原因は、承久の乱で鎌倉幕府が勝ちます。そうしますと、組織図では朝廷の家来が鎌倉幕府です。しかし、勝ちましたので朝廷より上に立つ訳です。朝廷の上に立つということは次の天皇を誰にするかというのを、いちいち幕府の最高責任者の意見を聞かないと決められない。立場上では上の朝廷側が当時の幕府の方に使いを寄越して次の天皇様はどうしたらよろしいでしょうかと伺います。朝廷側の我慢辛抱が想像できます。

そして後醍醐天皇の時代まできますと、30歳過ぎてもまだ皇太子です。両党迭立は順繰りに持妙院党と大覚寺党に天皇を立てるという事です。しかしそうもいかない事も多いものです。早死にしたりしますから。ですから本来なら後醍醐天皇が天皇になるという風な事はなかったようです。

それで後醍醐天皇は常に北条鎌倉幕府をいつ倒そうかという事になっていきます。その動乱の元は鎌倉幕府の承久の乱以後の両党迭立という事です。そのスタートをきったのは泰時です。この辺から元弘の乱とかいろんな動乱がありまして、いつかこのような鎌倉幕府滅亡がくるなというのがわかります。建武の新政は承久の乱から繋がっているようです。

 「北条氏の家紋」

太平記の中から伝説的なところを一つ纏めてみます。それは北条時政、北条氏の鱗の紋が江の島に発生します。太平記の巻(まき)第五。時政江ノ島に参篭(さんろう)の事。この事は作者が誰であっても北条氏の三鱗は北条時政から始まるという事です。ただし北条時政といっても北条氏は相当大きな一族ではなかった。吾妻鏡には北条四郎と書かれていますので元々は大した事はないようです。巻第五北条時政江の島に参篭の事の所に、昔鎌倉草創の始め北条四郎時政、江ノ島に参篭して子孫の繁盛を祈りけり、三七、二十一日ですね、二十一日にあたり、赤き袴に柳裏(やなぎうら)の衣(きぬ)着たる女房、女の人、こうなれば美人と、端厳美麗にして忽然として時政の前にきた。お前の前世は66部の法華経を写して、そして66ヶ国の霊地に奉納した。そういう良い事をしたから、この日本国に生まれた。良い事をしたので、良いことがあるよ。そう言う夢を見た。そう言った綺麗な女の人、実はこれが伏し丈(ふしたけ)二十丈あまりの大蛇となって海中に入って行った。その跡を見ると、大きなる鱗を三つ落とせり。大きなる鱗を三つ落とした。これが、即ちかの鱗を取って、旗の紋にぞ推(お)したりけり。太平記はこう言い切っています。ミツウロコ形の北条氏の家紋が生まれます。

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「けんえんの仲」

鎌倉から臨済禅が発展します。そして鎌倉幕府が滅亡するという段階で、次に入ってくる人が夢窓国師(夢窓疎石)です。夢窓国師は瑞泉寺を住まいにしていましたが、主に足利氏の支援を受けていますので円覚寺を一生懸命応援します。夢窓国師のところに入って来たものは物にしろ、今でいうお金にしろ、尽く円覚寺復興の為にと夢窓国師はしています。元々は建長寺と円覚寺とが兄弟寺で、まずお坊さんが来たら、建長寺の住職になって、しばらくしてから円覚寺に移るという兄弟寺でした。しかし、夢窓国師がやりすぎましたのは、大事な正続院(しょうぞくいん)を円覚寺を思う余り、建長寺から円覚寺に移してしまいます。今の円覚寺の舎利殿の右側にある建物です。それ以来、まさに建長寺と円覚寺はもう仲が悪くなります。それで建長の建と円覚寺の円を取りまして建円(犬猿)の仲と鎌倉では言うんですね。そして最期には応安7年(1374)に、建長寺のお坊さんが柴を売りに円覚寺に行くと口論となり喧嘩をして、そして持って行った蝋(ろう)を薪の置いている場所に放り投げてしまいます。そして応安の大火となり円覚寺は全焼してしまいます。もう、建円の仲が極まります。そしてそれの手打ち式をやったのが、なんと昭和39年ということです。