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[2017/02/08]

太平記ゆかりの鎌倉の名所を歩く 地域・観光・歴史

鎌倉宮のご案内

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地域特派員

かん治

かん治

鎌倉検定は1級です。お酒は2級を飲み、プレゼントをいただきますと、喜んでサンキュウと言っています。サラリーマンです。給料はハッキュウです。

【はじめに】 『太平記』は全40巻で日本歴史文学の中では最長の軍記物語です。第96代後醍醐天皇即位の文保2年(1318)3月から始まり、貞治6年(1367)12月に室町幕府二代将軍義詮が亡くなり、幼君三代将軍義満の補佐として細川頼之の執事就任までの約50年間の動乱を描いています。小島法師の作と言われていますが不詳で、南朝に縁の深い十数人の手が加わっていると推定されています。内容は後醍醐天皇の討幕計画から幕府滅亡、建武の新政から南北両朝の対立が描かれています。さて、鎌倉は主要な舞台として『太平記』には、数多く登場しています。今回は、その中でも悲運の皇子“護良親王”をご祭神とする“鎌倉宮”と親王の墓のある“理智光寺跡”を、次に鎌倉幕府の執権として覇権を握り続けた北条一族の屋敷跡に建つ鎮魂の寺“宝戒寺”と一族が自害した“東勝寺跡”を連載で紹介します。

今回は「大塔宮鎌倉宮」についてです。

唱歌「鎌倉」の歌詞にも鎌倉宮が登場しています。

鎌倉宮(かまくらぐう)にもうでては
          尽(つ)きせぬ親王(みこ)のみうらみに
      悲憤(ひふん)の涙わきぬべし
鎌倉宮

鎌倉宮

【鎌倉宮】 1869年(明治2年)に明治天皇が自ら創建された神社で旧官幣中社です。戦前の神奈川県の神社として一番の格式を誇りました。明治天皇は、明治維新が成ったのは、護良親王(もりながしんのう)の御先徳によるものとして、親王の終焉の地である、この地に祀られました。そして勅命により、当時の太政官がこの地に建てましょうということになりました。とにかく強い護良親王という方がご祭神ですが、この方をお祀りしようという明治天皇の意思が強かったからですね。もうひとつは、お父様の孝明天皇が護良親王に関して非常に信仰の厚かった人だったということですね。このお社は護良親王が平等という考え方をもっていました。そして明治に入り士農工商がはずれましたので、誰が参画しても良いということになりました。その為に多くの人達が参画してくれました。鎌倉の漁師さんであったり、あるいは農夫の方々が、なんと2ヶ月で建てました。本殿と拝殿を共に2カ月で建てた。普通は2カ月では普通は建てられません。どれだけ多くの人々の協力があったかが伺い知れます。

護良親王は、後醍醐天皇のお子さんとして一番初めに生まれたお子さんです。ただ、一番目と言われるんですが同じ年の同じ日に、もし生れたらどうするかというと、お母さんの出自で、格式の高い家柄の良い人が一番になります。護良親王はその意味では3番目でしたので、3番目というふうに言われています。鎌倉幕府を倒すことに努力され、建武の新政では征夷大将軍となりましたが、足利尊氏と対立して捕えられ、鎌倉に流されました。1334年(建武元)11月、鎌倉にいた尊氏の弟直義(ただよし)は、このあたりにあった東光寺の境内に護良親王を押し込めました。翌年1335年(建武2年)7月に北条高時の遺児、時行は数万の兵をもって鎌倉を取り返しに攻めて来ました。世にいう、中先代の乱です。軍勢の手薄だった直義は敗れて西に逃げのびる途中、家来の淵辺伊賀守義博に命じて親王の殺害を命じました。9ヶ月も幽閉されていた為、体が思うように動かず親王は28歳でしたが、ここに気の毒な最期を遂げました。境内奥には親王が幽閉されたという土牢があります。この土牢なんですが深さが約3m半から4mほどございます。覗いても中々見れませんけれども入口から少しなだらかに落ちます。そして、お参りをする、その足元の方に戻るように深くなります。ですから、今度は急激に折り返すように深くなるわけです。一番下は約8畳半くらいあります。この土牢の中に約9ヶ月間、親王は幽閉されました。この土牢の名前は二段岩窟と呼ばれています。

画像 164

護良親王幽閉の土牢

本殿、内拝殿・拝殿と社殿が並びます。本殿は切妻、高床、平入りの伊勢神宮と同じ神明造りです。伊勢の神宮と同じ作り方をしているんですが、屋根の鰹木(カツオギ)の形が変わっておりまして、断面が四角(通常は丸型)です。これは唯一神明造りの伊勢神宮に遠慮して形式を変えているようです。鎌倉宮は明治2年の創建ですが、2年と言いますと、2年も経っているような気がします。ですが慶応4年の半分が明治ですから、明治2年の2月にこのお社が建てられましたので半年経っていないんですね。その中でこれが建っています。明治2年2月に勧請し同年4月には創建されました。社殿等は創建当初のものです。

拝殿、内拝殿、本殿

拝殿、内拝殿、本殿

鎌倉宮本殿の鰹木

鎌倉宮本殿の鰹木

関東大震災後復旧工事は昭和2年から4年かけて終了しています。境内に摂社・南ノ方を祀る南方社、村上義光を祀る村上社があります。

村上社と撫身代り像

村上社と撫身代り像

また、明治6年4月16日、明治天皇行幸の際建築された行在所(あんざいしょ)があります。現在その一部を宝物殿として使用しており、親王ゆかりの宝物等を所蔵、展示しています。一番左側に、赤い直垂があります。護良親王が着ていた直垂です。大変、大きな物で護良親王という人は、とっても体格の良い人であったということが分かると思います。そして木彫りの馬上像があります。これは護良親王が戦っている姿を掘ったもので、馬は当時の原寸大の大きさです。昔はこんな小さな馬で戦ったんですね。親王は構図の関係上、実際よりも小さく制作されています。

護良親王木彫りの馬上像

護良親王木彫りの馬上像

その下にある絵は親王が生まれてから亡くなるまでを描いています。お生まれになって、少しして比叡山に入ります。そして、比叡山では大変、頭の良い親王として、大事に育てられますけれども、そのうちお父様が隠岐の島に流されてしまいますので、今度は自分で兵をあげて戦います。笠木、赤坂、千早、そして十津川と戦って、鎌倉幕府を打ち破るんですけれども、あの土牢に幽閉されて亡くなられました。今度は、こちら側をみていただくと、東郷平八郎の書、こちら側は乃木希介さんの書です。お二人とも、よく鎌倉宮にお参りされたと言われております。東郷さんは隣の逗子にお出でになりましたし、乃木さんは隣の藤沢にいらっしゃいました。今度はこちら側の所、目の前の所が明治天皇がお休みになられたお部屋でございます。そして、その隣に鎌倉宮と書かれた額がありますけれども、このお社は2カ月で建ってしまいました。扁額が間に合わない。実際的にご神体が来たのは約6ヶ月後でした。その中で、額だけ早く送って欲しいと催促をするんですね。来た額がこれです。びっくりします。何故か、字が違っているんです。宮と言う字の中にノというのが抜けているんですよ。すみません、ちょっと字が違っているような気がする。これでいいと。格式を示すものとして、こういう字を使います。鎌倉宮と同じようにこの字を使うところは、明治神宮がこの字を使っております。ご朱印をもらいますと、ノのないご朱印をもらいます。

明治天皇ご親筆の扁額

明治天皇ご親筆の扁額

拝観入口でいただく、由緒書の裏に獅子頭というお守りが有ります。大変、有名な神社のお守りです。これは口が開いて厄を食べるといわれています。護良親王が戦に行かれる時に持っていかれたお守りです。口が開きますので、これで厄をたべて下さいと言う意味です。この獅子頭は面白い由緒がありまして、厄を食べると割れてしまうと言われています。

例祭は8月20日。毎年、秋には「鎌倉薪能」が行われています。

最後に小噺をひとつ! さて、建武の新政の時は、南北朝時代です。南朝の天皇と北朝の天皇がおられました。後醍醐天皇は南朝です。鎌倉北条氏や足利尊氏は北朝の天皇を擁していました。鎌倉幕府が滅亡して、今度は結果的に後醍醐天皇と足利尊氏が反目します。一時、尊氏は敗れ、九州に落ち延びます。この時に、後醍醐天皇の忠臣である、楠正成は後醍醐天皇に進言します。「尊氏は立派な武将ですので、ここで和睦してはいかがでしょうか?」。しかしながら、この進言を後醍醐天皇は聞き入れません。何故か?後醍醐天皇はナンチョウ(南朝・難聴)だったんですね。  (かん治)

神奈川県鎌倉市二階堂154