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[2016/03/17]

それでも前へ―南三陸町の今 地域・観光・歴史

東日本大震災から5年 歩み遅き復興と変わりゆく人々の心

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東日本大震災から1 年後、2012 年3 月に茅ヶ崎のボランティアに同行し訪れた宮城県南三陸町。8 割が被災したまちがあの日から5 年経つ今、現地の人々を再び訪ねました。紹介するのは一部の人の声ですが、思うように進まない厳しい現実とそんな中でもこの出来事からプラスの要素を見出そうという強い思いに触れました。        (編集部・増田誠子 取材日= 3 月4 日・5 日)

みなさまに足を運んでいただくことが被災地の元気の元に

「遠方の方がまちの写真を見て『何年前の景色ですか?』と聞かれるんです。今の姿ですと言うと驚かれます。津波に遭った場所はまだ更地で土を盛っているところ。復旧の度合いは県内で格差が出ています。当初は壊れた建物を見るのが辛かったですが、ある時期からそれが片付いてしまったというのも悩ましい気持ちで。本当ならここにあの店があっただろうにとか思ってしまうんです。生きることに必死だった直後から、一日も早く避難所から仮設住宅へ、そして一刻も早く仮設から出たいという思いを人々は持っていました。ところが震災から3年が経ったころから『ここでもいい』という声が聞こえてきたんです。あれほどこの町に住み続けたい、家を建てたいと言っていたのに…。“住めば都”で移り住んだ人は帰って来なくなる。ローンや子どもの成長でかつての思いを変えざるを得ない状況になっています。問題は地震発生の時だけでなくその後も続くもの。現地で生の声を聴いてそれぞれの立場で考えていただくことが減災に結び付くはずです。失ってしまった日常を取り戻したいというのが私たちの思い。みなさんが来てくださることが被災地を元気にする元ですので、ぜひ気軽にいらしてください」

阿部憲子さん/南三陸ホテル観洋の女将。同館も一部被災したが避難所として開放。約600 人の住民、ボランティアらが滞在した。震災後から子供の学習支援を継続。町内に点在する店の活性を図りマップ作成を呼びかけ、第一回観光王国みやぎおもてなし大賞受賞。今月、全国の被災地の語り部によるシンポジウムを開くなど、復興に向け活動している

 

限られたところで楽しく生きなきゃね

「最初仮設住宅に入った時は、隣とも近いし、狭くて嫌だなって思っていたけれども、友達もできてもうすっかり慣れたね。高齢者の2人暮らしが多く、『できればここでいいや』という人が結構います。引っ越しって大変だし、新しい人づきあいもすることになるし。今までと離れた場所や隣町に家を建てた人は周りが丸っきり知らない人ばかりだから、寂しいっていう人が結構いるって聞きますね。私たちは息子が家を建てようとしているけれど、ローンを組まないといけないから5年も経ってちょっと焦っているの。でも、ボランティアの人たちがいっぱい来てくれたから、子どもたちやお年寄りの間に感謝の気持ちがうんと沸いたといういい面もある。何にも無くなったけれど、ほかの人より大変だとか思うことはないです。限られたところで楽しく生きようという思いですね」

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鈴木くに子さん/津波に飲まれるもがれきの山に浮かされ、流れ着いた先で消防士に助け上げられた。4 年余り、2K の仮設住宅に暮らしている

 

減ってしまった仲間たちでもこの海でいいものを育てたい

「私は船を買って作業場も再建できましたが、できない人もいる。ここの70人ほどの漁師も半分以下に減りました。ほかに移住した人や、高齢であること、後継者がいないなどの問題もあります。でも、私はこのまちでいいカキやワカメを育てていきたいですね」

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三浦勝夫さん/波伝谷漁港の漁師。津波に流されるも奇跡的に生還した

ワカメの水揚げが行われている波伝谷漁港の朝。てきぱきと手伝い合う漁師の人々。カキやメカブもシーズン中

ワカメの水揚げが行われている波伝谷漁港の朝。てきぱきと手伝い合う漁師の人々。カキやメカブもシーズン中

 

津波に飲まれ、43 人の犠牲者を出した南三陸町防災対策庁舎。4 年前は奥には公立志津川病院が見えたが今は取り壊され、周囲は盛土されている。この庁舎は震災から20年間県が管理し、震災遺構として保存するか解体するかを町が決めることになっている

津波に飲まれ、43 人の犠牲者を出した南三陸町防災対策庁舎。4 年前は奥には公立志津川病院が見えたが今は取り壊され、周囲は盛土されている。この庁舎は震災から20年間県が管理し、震災遺構として保存するか解体するかを町が決めることになっている

 

2012年4月28日掲載 関連記事はコチラ160326-17